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Sample Essay Question
阪本 浩太郎 edited this page Jan 28, 2017
·
1 revision
Sample Essay Questionは次の場所に設置されております。
src/main/resources/qaset
**注意)**下記のサンプルの問題は東京大学の世界史科目の過去問から作成していますが、模範解答はライセンスの都合上公開できないため、次の3種類のタグの中には本来模範解答が入りますが、模範解答ではないテキストを挿入しています。
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1"></expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy2"></expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy3"></expression>
このように、模範解答ではないものを模範解答として設定しているため、このQAコーパスを基に出力される評価結果の値に意味はありません。 なお、国際会議NTCIRのQA Labタスクに参加し、覚書を提出すると、本当の模範解答を含むQAコーパスが手に入ります。
A.xml
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<answer_sheet ver="0.1">
<answer_section id="K792W10-1" label="K792W10_【1】">
<instruction><p>それ以前の時期,世界各地の政治権力は,その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ,西アジア,東アジアにおける具体的な実例を挙げ,この3つの地域の特徴を比較して,解答欄(イ)に600字以内で論じなさい。その際に,次の7つの語句を必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。</p></instruction>
<reference_set>
<reference format="data" id="d01" is_directly_referred="0">次の文章は日本国憲法第二十条である。第二十条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。2.何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。3.国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。この条文に見られるような政治と宗教の関係についての考えは,18世紀後半以降,アメリカやフランスにおける革命を経て,しだいに世界の多くの国々で力をもつようになった。</reference>
<reference format="data" id="d02" is_directly_referred="1">ジズヤ, 首長法, ダライ=ラマ, ナントの王令廃止, ミッレト, 理藩院, 領邦教会制</reference>
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<keyword>ジズヤ</keyword>
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<keyword>ダライ=ラマ</keyword>
<keyword>ナントの王令廃止</keyword>
<keyword>ミッレト</keyword>
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<keyword>領邦教会制</keyword>
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<expression_set>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1">ナントの勅令(ナントのちょくれい。仏: Édit de Nantes)は、1598年4月13日にフランス王アンリ4世がナントで発布した勅令。ユグノーなどのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、初期近代のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた。この勅令によってユグノー戦争は急速に収まりを見せ、フランスの国家統一の出発になった。戦費の縮小や商工業におけるユグノーの活躍もあって政治情勢のみならず国家財政も安定し、17世紀のフランスの大国時代を作り上げた。しかしプロテスタント信徒はこのとき、自分たちの教会を持つことは許されたが、それとは別にカトリック教会にも十分の一税を納めなければならなかった[1]。1685年、「太陽王」ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令によりこの勅令を廃止し、カトリック中心の権威主義的な国家へと逆戻りさせた。これによって、プロテスタント信徒の大半はネーデルラントなどの国外へ逃れ、商工業の担い手を失ったフランスの衰退を招くことになった。プロテスタント信徒は産業の中核を占めていたため数世代にもわたる財政の悪化を招くことにもなり、それを補うための増税政策に反発した貴族・聖職者や市民・一般国民などの不満が爆発したフランス革命の遠因ともなった。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy2">ジズヤは、イスラーム草創期にイスラーム政権の庇護を受けたズィンミーから徴収される貢納や租税一般を指したものであった。内容は地域差がおおよそあったが、大体においては地租と人頭税を併せたものであった。しかし、ウマイヤ朝末期以降にイスラームへの改宗者が増大すると、ジズヤをズィンミーから徴収される人頭税、ハラージュを地租・土地税とする用語法上の区別が定着するようになった。つまり、イスラーム政権が「ズィンマの民(ahl al-Dhimma)=ズィンミー」に対して下す「庇護(ズィンマ)の賦課」として租税という性格が明確化されるようになった。ウマイヤ朝では、首都ダマスクスのあるシリア近辺に住む改宗ペルシャ人などは、イスラーム大征服時代の初期段階でムスリムとなったにもかかわらず、アラブ人ムスリムとのあいだに税負担の不平等があることに大きな不満をつのらせていた。同王朝第8代カリフのウマル2世は、こうした不満をみてとり、また、ズィンミー(異教徒)のイスラームへの改宗を奨励しようとして、ズィンミーとマワーリー(非アラブ人改宗者)の租税負担に差を設ける必要をうったえ、マワーリーからのジズヤ徴収を停止しようとした。ホラーサーン総督ジャラーに対して「メッカの方向をむいて礼拝する者には、すべてジズヤを免ぜよ」と命じたのは、そのあらわれである。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy3">チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベットの人々は観音菩薩をチベットの守護尊であると考えるようになった。ダライ・ラマはその観音菩薩の化身とされる転生系譜である。ラサのポタラ宮は、第五世以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は五体投地とされる)、信者らからはイーシン・ノルブ(如意宝珠の意)と尊称される存在である。日本ではチベット仏教の法王とも呼ばれる[2]が、チベット仏教で法王と呼べる存在は、かつて明朝より大宝法王の称号を贈られたカルマ派のカルマパや、北ドゥク派のギャルワン・ドゥクパなど複数存在する[註 1]。多くの場合、ダライ・ラマはゲルク派の指導者であると考えられているが、この地位は正式にはガンデン・ティパの属下にある。ガンデン・ティパはダライ・ラマによって任命される任期制の役職であり、実際に多大な影響力を有しているのはダライ・ラマである。ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、ダライ・ラマ5世の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。</expression>
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</answer_set>
</answer_section>
<answer_section id="M792W10-1" label="M792W10_【1】">
<instruction><p>13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動きを,解答欄(イ)に510字以内で論じなさい。その際に,次の8つの語句を必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。</p></instruction>
<reference_set>
<reference format="data" id="d01" is_directly_referred="0">歴史上,異なる文化間の接触や交流は,ときに軋轢を伴うこともあったが,文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば,7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも,新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ,発展していった。そして,そこで育まれたものは,さらに他地域へ影響を及ぼしていった。</reference>
<reference format="data" id="d02" is_directly_referred="1">インド, アッバース朝, イブン=シーナー, アリストテレス, 医学, 代数学, トレド, シチリア島</reference>
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<keyword>インド</keyword>
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<keyword>イブン=シーナー</keyword>
<keyword>アリストテレス</keyword>
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<keyword>シチリア島</keyword>
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<expression_set>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1">アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった[1]。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy2">イブン・スィーナー(波: ابن سینا, پور سینا、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー(ペルシア語: ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری, ラテン文字転写: Abū 'Alī al-Husayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī)、980年 - 1037年6月18日)は、イスラム世界を代表する知識人で、哲学者・医者・科学者。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった[3]。ラテン語: Avicenna, カナ転写: アウィケンナ(英語圏では「アヴィセンナ」[ˌævɨˈsɛnə]と読まれる)[4]。「頭領」を意味するシャイフッライース(Shaikh ar ra'is)[5]、「神の証」(Hujjat al-Haq)[6]の尊称でも呼ばれている。中国との交流が多いトランスオクシアナ地方の生まれで名前のスィーナーが「シナ」の発音に似ていることから彼の出身を中国と関連付ける説、アラビア語において「スィーナー」が「シナイ」を意味する点からユダヤ人と関連付ける説も存在する[7]。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy3">先史時代から人が住んでおり、ローマの領地となってからは「トレトゥム」と呼ばれた。西ゴート王国がイベリア半島を支配したのち、560年にアタナヒルド王によって首都とされた。トレドでは400年に第1回トレド教会会議が開かれていたが、西ゴート時代にもたびたび教会会議が開かれた。これによりトレド司教座の権威が高まり、イベリア半島全体の首座大司教座となった。711年、ウマイヤ朝の指揮官ターリク・ブン・ジヤードによって征服され(グアダレーテの戦い(英語版))、イスラム支配下に入った。1031年に後ウマイヤ朝が崩壊すると、タイファ諸国の1つトレド王国の領域となった。1085年、カスティーリャ王国による長期の包囲ののちトレドは降伏し、アルフォンソ6世は5月26日にトレドに入城した。1086年10月23日にサグラハスの戦いでムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーン(英語版)が率いるイスラム軍の救援部隊の前にアルフォンソ6世は敗走したものの、カスティーリャ王国はムラービト朝の攻撃からトレドを守り抜いたため、トレド征服はレコンキスタの節目の1つとなっている。12世紀から13世紀、トレド翻訳学派(スペイン語版、英語版)(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれる学者が活躍した。</expression>
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<answer_section id="M792W10-2" label="M792W10_【2】_問(1)_(a)">
<grand_question_set>
<grand_question id="q02">歴史上,帝国と呼ばれた国家は,多民族,多人種,多宗教を包摂する大きな領域をその版図におさめている場合が多かった。それらの国家の繁栄と衰退,差異や共通性,内外の諸関係について,次の3つの設問に答えなさい。解答は,解答欄(ロ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。</grand_question>
<grand_question id="q03">ローマはテヴェレ川のほとりに建設された都市国家にすぎなかったが,紀元前6世紀に,エトルリア人の王を追放して共和政となった。その後,周辺の都市国家を征服してイタリア半島全体を支配し,やがて地中海世界を手中におさめる大帝国となった。ローマが帝政に移行する紀元前後からおよそ200年にわたる時期はパクス=ローマーナとたたえられ,平和が維持された。以下の(a)・(b)の問いに,冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。</grand_question>
</grand_question_set>
<instruction><p>ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設について,60字以内で説明しなさい。</p></instruction>
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</reference_set>
<answer_set type="singleton" number="1" >
<answer match_type="broad" order="-1" choices="" format_string="" length_limit="60字以内">
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<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1">エトルリア人は、イタリア半島中部の先住民族。インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。</expression>
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B.xml
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<answer_sheet ver="0.1">
<answer_section id="D792W10-1" label="D792W10_【1】">
<instruction><p>運輸・通信手段の発展が,アジア・アフリカの植民地化をうながし,各地の民族意識を高めたことについて,下記の9つの語句を必ず1回は用いながら,解答欄(イ)を用いて510字以内で論述しなさい。</p></instruction>
<reference_set>
<reference format="data" id="d01" is_directly_referred="0">私たちは,情報革命の時代に生きており,世界の一体化は,ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに往きかうだけでなく,情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には,運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。 歴史を振り返ると,運輸・通信手段の新展開が,大きな役割を果たした例は少なくない。特に,19世紀半ばから20世紀初頭にかけて,有線・無線の電信,電話,写真機,映画などの実用化がもたらされ,視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は,欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えば,ロイター通信社は,世界の情報をイギリスに集め,大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で,世界中で共有される情報や,交通手段の発展によって加速された人の移動は,各地の民族意識を刺激する要因ともなった。</reference>
<reference format="data" id="d02" is_directly_referred="1">スエズ運河, 汽船, バグダード鉄道, モールス信号, マルコ一ニ, 義和団, 日露戦争, イラン立憲革命, ガンディー</reference>
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<keyword>スエズ運河</keyword>
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<keyword>マルコ一ニ</keyword>
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<keyword>日露戦争</keyword>
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<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1">バグダード鉄道 (独: Bagdadbahn)は、19世紀末から20世紀初めにかけてドイツ国の3B政策として国際的な注目をあびた鉄道。最も狭義の意味の「バグダード鉄道」はドイツ資本のバグダード鉄道会社に敷設権と沿線開発の権益が供与されたコンヤ・バスラ間の鉄道およびその計画線のことだが、広い意味ではイスタンブール(ハイダルパシャ駅)〜エスキシェヒル〜コンヤ〜バグダード〜バスラ〜クウェート間の鉄道とその計画を指すことも多い。既にアナトリア鉄道会社によって開通していたハイダルパシャ〜アンカラ線(1893年開通)もしくはエスキシェヒル〜コンヤ線(1896年開通)を延長し、小アジアとメソポタミア(イラク)を横断してペルシア湾の海港を終点とする鉄道計画であった。最終的にはエスキシェヒル〜コンヤ線を延長し、終点の海港はバスラとする計画線に基づいて建設が進められたが、バグダード鉄道会社による建設は第一次世界大戦のため未完に終わり、ドイツは敗戦によってその利権を失った。第一次世界大戦後はオスマン帝国から独立した国々で建設が進められ、1940年に全通した。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy2">アメリカ合衆国の発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスは、1837年9月4日にニューヨーク大学で現在のものと全く異なった符号で電信実験を行い、ジョセフ・ヘンリー(プリンストン大学教授)の指導とアルフレッド・ヴェイルの協力の下、改良した符号と電信機との特許を1840年6月20日に取得した。さらに改良した符号により1844年5月24日に実際の送信実験に成功した。この名称は発明者にちなんだものである。1849年にフリードリヒ・クレメンズ・ゲールケが改良した符号をもとに、DÖTVの1851年10月ウィーン会議において標準規格として条約が結ばれた。その後、1868年7月にウィーンで開催されたUTI(Union Télégraphique Internationale、万国電信連合、ITUの前身の一つ)において現在のものの原型が国際規格として承認された。陸上同士の通信においては、電報などの文字通信で多く使われたが、1920年代からテレタイプ端末による電信・1930年代からテレックス・1980年代からファクシミリ・1990年代後半から電子メールなど他のデジタル通信方式の発達により、次第に使われなくなった。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy3">19世紀後半、イランを支配するガージャール朝は、数度の戦争の敗北、経済の不振によって急速に弱体化しつつあった。この中でヨーロッパ近代思想の自由主義や民族主義にふれた改革派と、弱体化する一方で非常に専制的態度を強化するガージャール朝政権に対して異議を唱える十二イマーム派シーア派のウラマー、さらに外国勢力の経済的支配の強まりに反感をいだくバーザール商人らが結合された。その第一の頂点が1891年12月のタバコ・ボイコット運動であったが、やがて政府に憲法の発布、議会の設置を求める一大運動をおこすことになるのである。これが立憲革命である。1905年末のテヘランでの物価騰貴を背景として、1905年12月に開始された運動は、1906年前半を通じて粘り強く繰り広げられ1906年8月5日には立憲勅書を獲得することになる。同10月第一議会が招集されてただちに憲法制定の作業に入り、12月に憲法が発布された。ここまでが狭義のイラン立憲革命である。この議会制(第一立憲制)は安定せず、ガージャール朝反立憲派による1908年7月から1909年7月までの揺り戻し(小専制)があった。</expression>
</expression_set>
</answer>
</answer_set>
</answer_section>
<answer_section id="F792W10-1" label="F792W10_【1】">
<instruction><p>第二次世界大戦中に生じた出来事が,いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて,解答欄に510字以内で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。なお,EECに付した( )内の語句は解答に記入しなくてもよい。</p></instruction>
<reference_set>
<reference format="data" id="d01" is_directly_referred="0">人類の歴史において,戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に,それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。 第二次世界大戦は1945年に終結したが,それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており,これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし,国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく,米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。たとえば,中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢力争いが激化するなど,戦後の冷戦につながる火種が存在していた。</reference>
<reference format="data" id="d02" is_directly_referred="1">大西洋憲章, 日本国憲法, 台湾, 金日成, 東ドイツ, EEC(ヨーロッパ経済共同体), アウシュヴィッツ, パレスチナ難民</reference>
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<keyword>大西洋憲章</keyword>
<keyword>日本国憲法</keyword>
<keyword>台湾</keyword>
<keyword>金日成</keyword>
<keyword>東ドイツ</keyword>
<keyword>EEC(ヨーロッパ経済共同体)</keyword>
<keyword>アウシュヴィッツ</keyword>
<keyword>パレスチナ難民</keyword>
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<expression_set>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy1">金 日成(キム・イルソン、きん にっせい、김일성、1912年4月15日 - 1994年7月8日)は、朝鮮の革命家・独立運動家で、北朝鮮の政治家、軍人。満州において抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、第二次世界大戦後はソビエト連邦の支持の下、北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあり、1948年から1972年までは首相を、1972年から死去するまで国家主席を務めた。また、同国の支配政党である朝鮮労働党の党首(1949年から1966年までは中央委員会委員長、1966年以降は中央委員会総書記)の地位に、結党以来一貫して就いていた。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥・朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄(三回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に神格化され、崇拝されている。彼の死後1998年に改定された憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。現在、遺体は平壌近郊の錦繍山太陽宮殿に安置・保存されている。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy2">1951年、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が調印され、欧州石炭鉄鋼共同体が設立された。欧州石炭鉄鋼共同体は超国家主義と国際法に基づく国家間共同体であり、ヨーロッパの経済に寄与し、また加盟国の間で統合することにより将来の戦争を回避するということが狙いとなっていた。その後ヨーロッパ合衆国を樹立しようとする目的から欧州防衛共同体と欧州政治共同体という2つの共同体を設置しようとする動きがあった。ところが欧州石炭鉄鋼共同体の議会組織である共同総会において後者の設立条約が起草されたものの、欧州防衛共同体設立構想はフランス国民議会により否決された。欧州石炭鉄鋼共同体最高機関の委員長であったジャン・モネはフランスでの拒否に反発して委員長を辞任し、政治分野での統合よりも経済分野での統合を進めるための新たな共同体を設置することで活動を開始した[2]。1955年のメッシーナ会議のあと、ポール=アンリ・スパークは関税同盟についての報告案を準備する作業を任された。いわゆるスパーク報告書[3]は1956年のヴァル・ドゥシェス城での政府間協議の土台となり、オーリン報告書とともにスパーク報告書は欧州経済共同体設立条約の基礎となった。</expression>
<expression is_gold_standard="true" writer="dummy3">アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、独: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、波: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容された90%がユダヤ人であった。アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである[2]。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。</expression>
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